よくがんばった



中学からサッカーをはじめ、学生を終えるまで、若いにもかかわらず「引退」というものを何度か経験してきた。


中学高校では3年の夏ごろには引退。大学でも4年の秋で引退。そのたびに、体と心のどこかにぽっかりと穴の開いたような気持ちになった。あの心境を今日思い出した。


娘が中学にはいって選んだ部活動は陸上部。女子の集団競技はひとつ間違えて、人間関係がぐちゃぐちゃになったりするとうちの娘はだめになっちゃうだろうと考えた私の薦めも多少はあったのではあるが。


1年生のころ、関東大会やジュニアオリンピックに出場する先輩もいる中で右往左往していたようだ。そのうち、練習量に身体が音を上げ、シンスプリントを患い軽いランニングもできないような状態になったこともあった。あのころは、毎日めそめそしていた。自分は出場機会がなくても遠くの競技場に朝早くから出かけたり、寝坊して顧問の先生から電話が入ったり…。走れないので、皆の記録を採ったりというマネージャのような役回りになってしまうこともあった。とにかく、娘の「競技生活」前半はあまりいい思いはできなかったようだ。私も、勧めたのは失敗だったかなぁと少し弱気になった時期でもあった。


2年生になり、フィールド競技をやることになった。陸上と一言で言っても種目はさまざま。短距離、中長距離、跳躍、投擲。それぞれの中でもさらに細分化できる。しかし、顧問の先生は一人か二人でそれぞれに自分の経験していた種目(専門)があり、それ以外はそんなに造詣が深いわけでもなさそうなのである。わたしは娘には早くから投擲を勧めていたのだが、先生が恐くて言い出せなかったようだった。それが、2年になり投擲をはじめると、あれあれと市内でトップになってしまった。県の西地区の大会でも予選を突破するところまでいったのである。びっくりはびっくりだったけど、まぁそれくらいはできるでしょうとも思い多少鼻が高かった(笑)。


しかし、地区を抜けて県レベルの大会に出ると、壁はかなり高く予選落ちで決勝には進めない。


でも、陸上競技というのは大会でいい成績を残すという目標もあれば、自己ベストを出すというもうひとつの目標をもてるのがいいところではなかろうかと思う。娘も当初は投げるたびに記録が伸びていたようなころもあったが、一定の記録を超えられないようになっていた。それを如何に超えるか。新しい投法にもチャレンジしたけれど、いかんせんその頃には「引退」の二文字がちらつき始める時期になっていた。顧問の先生も投擲が専門ではないし、時間的にも新たな投げ方を自分のものにするにはいたらず、最後の秋の県大会に向けた市内の大会を迎えた。自己ベストを出すことはできなかったが県大会への切符は手に入れた。これが、3年の夏休み前のこと。


この頃になると他の運動部も3年生は最後の大会になり、みな「引退」して本格的な受験生になる。陸上部も最前の市内大会で勝ち抜かないと県大会へは進めず、ここで「引退」である。娘の同僚たちも女子はみな「引退」してしまった…。3年生の女子で残ったのは娘だけになってしまったのである。ある種感無量ではあった。1年生の頃は走ってはビリ、挙句に脛をいためて(シンスプリント)付き添いや記録採りくらいしかできず、泣いてばかりいた選手が最後まで生き残ったようなものである。


しかし、他の子が受験一本やりになる夏休みに練習をせねばならず、これはつらかった。焦りばかりが先にたち、いつもイライラして夏をすごした。他の子は知らず、受験は娘にとっては相当なストレスであり、これは現在も進行中である。


迎えた最後の県大会。5時前に起きて横浜の競技場に向かった。


結果は、予選通過ならず…。自己ベストにも数センチ及ばず…… なにか、間違いでも起きて20〜30cmくらい記録が伸びないかと期待したけれど、そんなことは起こるべくもなく…。まぁそれだけの技術も力もまだなかったのだから仕方ない。


競技が終わると、娘は意外にサバサバしていた。最前の市内大会では県大会への権利を得たにもかかわらず、自己ベストが出せなかった、とめそめそしていたのに。


なにはともあれ、これで一区切り。走れなくてつらくても一日もサボらず、投擲をやるようになってからは練習仲間もいないのに一人でよく頑張った。今日は、一杯やるぞ!!


自分の青春時代を思い出させてくれた娘に乾杯である。